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三柱神社

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三柱神社

三柱神社

祭神は、スサノオノミコト、オオナムチノミコト、イナダヒメノミコトの三柱です。


977年(平安時代中期)、佐々の地頭であった古川伊予守が、埼玉県大宮しの氷川神社から分霊をもらい、佐々郷古川岳の絶頂に神殿を設けて「三尊大明神」と称し、そこに三神を祀りました。そして、古川岳の一つを三尊岳と呼ぶようになりました。その後、移転や社名変更を繰り返し、現在の位置で三柱神社と呼ばれるようになりました。

おくんち

おくんち

おくんちとは、神社の秋の祭礼のことで、1144年9月9日には佐々で初めておくんちが行われ、郷中安全、五穀豊穣の祈願が行われるようになりました。


また、1181年には、佐々郷で流行した疫病をおさめるために祇園祭が始まりました。おくんちも祇園祭も、今も佐々で行われている伝統的なおまつりです。





三柱神社に残る歴史物

絵馬
三柱神社に眠る絵馬
絵馬
天井絵

三柱神社には、今も多くの歴史物が残されています。古くから神社に奉納されている絵馬は、享年年間のものとされています。









また、明治時代に描かれた、山水花鳥の優雅な天井絵も残っています。この80枚にもわたる天井絵は、旧平戸藩士佐々木場の山木紋蔵・紋之助兄弟と市瀬の酒造業、内山巨州の三人が描いたものです。









 

肉弾三勇士

北川伍長
 三柱神社の敷地内に肉弾三勇士北川丞伍長の象が立っています。
 昭和7年2月22日の上海付近の戦闘において、敵の鉄条網を爆破するため爆破班が編成されましたが、第二班が失敗してしまったため、隠密破壊が命じられました。破壊筒を鉄条網に投入した後点火する暇がないと判断した内田伍長は、最終手段として爆薬を点火したまま抱えて、鉄条と共に粉砕するという覚悟を決めました。このとき第三班に属していた江下武二、北川丞、作江伊之助が率先して点火された破壊筒と共に進んでいったそうです。そして、破壊筒は突入と共に爆発し、三人は命を落としてしまいました。しかし、このため突撃路が確保でき、敵陣の一角を占領できたといいます。
 その後、この三人は肉弾三勇士と伝えられるようになり、銅像建立の話が起こりました。そして、北川丞は佐々招魂場の忠魂碑の横に、作江伊之助は平戸亀岡神社前の広場に建立されました。しかし、太平洋戦争の深刻化に伴い、銅像は軍需資材として強制的に取り立てられてしまいました。その後、昭和43年に、別の場所に保管されていた別の種類の銅像を佐々町老人クラブ連合会が譲り受け、再び佐々町の台座に迎えられたのです。

 


佐々町で一番古い鳥居

鳥居 鳥居説明
松浦第三十三代安清公誠信より寄進された宝刀、1688年に寄進された鳥居が健在です。


住所
〒857-0341 長崎県北松浦郡佐々町羽須和免404
電話
0956-62-2416
交通アクセス
松浦鉄道佐々駅(佐世保駅より平戸方面に約40分)より徒歩約15分
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佐々町 企画商工課

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