写真の宝筐院塔化した五輪塔は美濃守の墓で法名「桂山嫩秀」と刻してある。何時頃の作か不明であるが、里の作永衣料店の裏の畑にあったものを建築移転のため作永氏の東光寺墓地に移したものである。
美濃守は系図によれば、松浦第22代豊久公の第6子にして松浦始と云い、元松浦の分属である紫加田家の養子となる。松浦第25代隆信公が、相神浦丹後守親公との間に永禄2年~6年にわたり役を起こし、この時の先鋒として戦ったが、戦利あらず永禄6年11月、一族殆どが戦死した。しかし、当時3~5才位の子を早岐に落ちのびさせており、その子が現在の紫加田または志方の祖となっている。